山内図

総門

平成9年10月5日開創300年を記念して建立された門で、本山である黄檗山万福寺の総門と同じ様式で造られました。 この門は地すべり対策工事で伐採した境内のけやきを使って建てられました。中央の屋根を高くし、左右を低くしたこの形式は中国の様式で牌楼式[はいろうしき]といい、漢門からもんとも言われます。また、屋根に摩伽羅まから摩伽羅まからは名古屋城の金のしゃちほこに似ていますが、尾ひれがありません。これはインドの伝説上の動物でガンジス河の女神の乗り物で、そこに棲むワニをさすといわれています。ワニは水辺の動物で一番強く聖域、浄域の結界けっかいを守るために守護神として屋根で見張っているのです。をのせているのとれんれん対聯ついれんともいい、柱や壁に対になる詩を掲げるもので、この聯はこの寺を開山した東皐心越禅師とうこうしんえつぜんしの書で、隷書体れいしょたいで書かれています。 法雨晴飛浄界曇雲番貝葉(法雨ほうう晴れやかに浄界じょうかいに飛び、曇雲貝葉どんうんばいようひろむ) 天華昼下長林祇樹雑栴檀(天華てんげ長林ちょうりんに下って、祇樹栴檀ぎじゅせんだんあつむ)が掛けられるのも特徴です。 また、窟門くつもん窟門くつもんは総門の右側にあり、大石段を上がらずに女坂を通って上がる入り口になります。「白雲関はくうんかん」という中国風の門は本山の三門さんもん横にある門を模したものです。 門外已無差別路(門外もんがいすで差別しゃべつみち無し) 雲辺又有一重関(雲辺うんぺん一重いちじゅうかんり)をくぐると女坂からだらだら坂であがれます。総門を入ると左手に跳ね返り不動はねかえりふどう跳ね返り不動はその昔本堂裏に遷座せんざしたことがあったのですが、不思議なことに一夜で元の場所に戻っていたので、それ以来、村人は跳ね返り不動と呼び篤く信仰してきました。 や大石段の途中右手に禁牌石きんぱいせき禁牌石きんぱいせきには「不許葷酒入山門」と刻まれて「葷酒くんしゅ山門さんもんるをゆるさず」と読みます。「くん」とはにら大蒜にんにくねぎなどの匂いの強い野菜で、葷や酒は山門内に入ってはいけないと禁止する表示です。この石碑は享保4年に第2代目天湫てんしゅう和尚によって建てられました。があります。

観音堂

当山最古の建物で、創建当時の姿を今に伝える茅葺きかやぶきのお堂です。300年前は「無尽法蔵むじんほうぞう」という一切経いっさいきょうを納める経蔵でしたが、9代目の東嶽和尚の頃、改築した折に北辰鎮宅霊符尊をお祀りして霊符堂となりました。その後、明治末新たな本堂が完成すると霊符尊は本堂に遷座し、このお堂は十一面観世音菩薩じゅういちめんかんぜおんぼさつ現在の観音様は明治42年に地元板鼻の大仏師・千木良法橋祐慶の作になる十一面観世音をお祀りしていますが、もともとこの寺の放生池の所には行基菩薩作になる身の丈9尺もある十一面観世音菩薩が祀られる観音堂があり、厄除け、安産のご利益があるとされました。近年は縁結びにご利益があるとされ若いカップルのお参りが多くなりました。を祀る観音堂になりました。 それ以来、厄除け、縁結び、安産、子育てのご利益があるとして信仰されています。

(本堂)霊符堂

当山の本堂にあたるのがこの霊符堂です。北辰鎮宅霊符尊ほくしんちんたくれいふそん北辰鎮宅霊符尊とは北極星と北斗七星を神格化した方位除けの守護神です。中国では古来人間界の上にある天界において、その星々の運行の中心は不動の星・北極星であるとして人間世界を含め過去・現在・未来の三世さんぜの吉凶禍福や運勢、さらに家相かそう・方位の全てを司る存在として信仰していました。人もその生まれた時によって一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星の9種類の本命星に分類され、その星の運行によって運勢・運命が変わると考えられ、善星を招いて幸福を守護し、悪星を除いて悪事災難を除く大威徳を具えるとされます。当山は厩橋城うまやばしじょう(厩橋城(前橋城))の裏鬼門うらきもん除けの寺として開山・心越禅師が将来した北辰鎮宅霊符尊ほくしんちんたくれいふそん七十二符による方位除けの道場として建立されたといってもいいのです。脇童子わきどうじは共に八卦を司る、右に抱卦童子ほうけどうじ、左に示卦じけ童郎どうろうを配します。と達磨大師をお祀りし、そして開山・東皐心越禅師とうこうしんえつぜんじ心越禅師は中国の浙江省せっこうしょうの出身で、中国曹洞禅を修め、延宝4年(1676年)長崎の黄檗宗・興福寺住職澄一ちんいの招きによって来朝しました。のち、水戸黄門みとこうもん徳川光圀とくがわみつくに)の帰依きえを受け、水戸の天徳寺てんとくじ(のちの祇園寺ぎおんじ)に入寺し、曹洞宗寿昌派じゅしょうはの祖となりました。禅師は書画・詩偈を巧みにするばかりでなく、黄檗宗の独立どくりゅうと並ぶ篆刻てんこくの祖であり、また音曲にも秀でていて「七弦琴しちげんきん」という古い形式の琴を伝えて、文人の間に広まりました。椅像を安置しています。 けやき権現造りごんげんづくりという、お寺なのに神社の雰囲気もある建築様式で明治44年に再建された本堂です。 ここでは方位除けを始め、家内安全、商売繁盛、開運吉祥、受験合格等の祈祷法要を行なっています。

達磨堂

現在の達磨堂は大阪吹田・大山立修氏の達磨コレクションの寄贈が縁となり、昭和61年10月5日に開堂しました。 達磨大師坐像だるまだいしざぞう達磨寺ができる由来となった一了居士の彫った達磨大師坐像は旧本堂(現在の放生池の所)の横の達磨堂にお祀りされていましたが、明治14年6月16日の火災で本堂・達磨堂等、現観音堂を除いて全て消失してしまい、烏有に帰してしまいました。現在、達磨堂の中央に本尊として祀られているの達磨像は昭和28年に前橋の福島紋七氏が奉納したもので初代の達磨像と同じように丁寧に彫られたそうで、達磨堂ができるまでは大講堂に祀られていました。 を中心に堂内には古今東西各種各様の達磨が所狭しと展示されています。

瑞雲閣

禅の教えを広め、精神文化の向上と発展に寄与するため、昭和50年に建設されました。2階には坐禅室があり毎日早朝坐禅会が行われ、また結婚式や茶会など儀式や各種行事も行う事ができます。 また中にはブルーノ・タウト展示室ブルーノ・タウト展示室は小さな一室ですが、デスマスクや自筆の色紙・短冊・画帳、著作や工芸品など貴重な遺品を展示しています。また往時の写真も数多く収蔵しています。や玄関内に仏教図書室(少林山達磨文庫少林山達磨文庫は玄関内にあり、仏教関係の書籍を中心に開架式の図書室として参拝の方々が自由に閲覧できるようになっていますし、無料で貸し出しもしています。漫画の入門書もたくさんあります。また、ビデオ、カセットテープから最近のCDやDVDも数多くそろえています。)もあります。

大講堂

青少年の修養の場として昭和2年に完成した禅の道場です。達磨大師を本尊にお祀りし、禅を通じて人格教育を行ない、サークルでの禅研修や新入社員研修など寝食を共にして、禅の生活を体験する研修の場として利用されております。またお施餓鬼など各種法要、茶会や句会、講演会やシンポジウムさらに展示会など多目的に活用されています。 また、黄檗鉄眼おおばくてつげん版「一切経いっさいきょう一切経はきょうりつろんの三蔵の全てを網羅した6,671巻の仏教経典類です。当山の一切経は 黄檗鉄眼版一切経おうばくてつげんいっさいきょうで享保元年(1716年)に5,000人の寄付者よって納められた記録が各経典の巻末に書かれています。」六千数百巻は現在この大講堂の中に納められています。

庚申塚

観音堂の周辺には130体程の庚申塔が建っています。庚申こうしん信仰は庚申かのえさるの日の晩に眠りに就いている間に体の中に入る「三尸さんしの虫」が天帝てんてい帝釈天たいしゃくてん)にその人の罪過を告げて、人間が本来生まれながらに持っている120歳という天寿てんじゅからその罪過の分だけ差引かれ早死にさせられるという中国道教の説が元になっているとされ、その晩には帝釈天たいしゃくてん青面金剛せいめんこんごう猿田彦さるたひこを祀り寝ないで過ごしました。 観音堂に北辰鎮宅霊符尊が祀られた寛政4年(1792年)以降に建てられ、文化年間に建てられたものが多いようです。そして立体曼荼羅りったいまんだらのように観音堂に祀られる天の中心たる北極星の前庭に帝釈天を祀り、その下に多くの庚申塔が建てられたのでしょう。 これらの庚申塔は庚申の日に諸々懺悔ざんげのために建てられたのであろう。

洗心亭

ドイツの世界的建築学者ブルーノ・タウトが昭和初期にこの洗心亭洗心亭は昭和2年八幡村の農業改良の指導に来ていた佐藤寛二東京農業大学総長が建てた別荘で当初は四方がよく見渡せる絶景地なので、それをもじって「紫峰荘しほうそう」と名付けられました。その後当寺に移管され、先々代大蟲和尚によって「洗心亭」と名前を変えました。井上房一郎氏はこの建物が空いていることを聞きつけて、タウトを案内したといわれる。当初は3ヶ月100日の約束であったのですが、タウトはこの環境を気に入り、2年3ヶ月住むことになったのです。 に居住されていました。タウトは、ここで日本文化をあらゆる面から研究し日本国内外に広めた功績は実に偉大です。庭には、タウトの「私は日本の文化を愛する」とドイツ語で書かれた記念碑があり、群馬県の史跡になっています。