黄檗宗 少林山達磨寺

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縁起

昔、碓氷川のほとりに観音様を祀るお堂がありました。

ある年の大洪水のあと、村人たちが川の中から香気のある古木を引き上げて霊木として観音堂に納めておきますと、延宝八年(1680)一了居士【いちりょうこじ】という行者が霊夢によって訪れ、信心を凝らして一刀三礼、達磨大師の座像を彫り上げ観音堂にお祀りしました。

この噂は「達磨出現の霊地・少林山」として近隣に広まりました。その頃の領主・酒井雅楽頭忠挙公【さかいうたのかみただたか】は厩橋城(前橋城)の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の帰依された中国僧・東皐心越禅師【とうこうしんえつ】を開山と仰ぎ、弟子の天湫【てんしゅう】和尚を水戸から請じて、元禄十年(1697)少林山達磨寺(曹洞宗寿昌派)を開創しました。

享保十一年(1726)水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、永世の祈願所とされました。

詳しい歴史

300年ほど前、この寺のあたりは前橋藩酒井公の領地で、その頃は観音様をまつる草葺きの小さなお堂があっただけでした。ここにまつられる9尺ほどの十一面観世音菩薩像は行基菩薩【ぎょうきぼさつ】の作で、厄除け・安産・子授けなどに御利益があるとされ、お参りの人が絶えなかったようです。

さて、延宝【えんぽう】年間(1673―1680)のはじめころ、大洪水があって碓氷川が氾濫したときのことです。 水が引けたある夜、村人が川の中に何やら怪しく光る物を見つけました。 不思議に思った村人達は夜が明けるのを待って調べてみると、どこから流れついたのか奇異な形の黒光りする大きな古木でした。 そして引き上げてみると、お香のような良い香りまでするのです。 みな不思議に思い、霊木として観音堂に奉納しておきました。

それから数年過ぎた延宝8年(1680)の春、この鼻高村に諸国を廻る一了【いちりょう】という老行者がわざわざたずねてやってきました。 不審に思った村人がここに来た訳を尋ねると、一了老人は不思議な夢の話をしました。それによると、ある時達磨大師が夢枕に立たれて言われるのに、「一了よ、鼻高の聖地に霊木があるから、坐禅をしているこの私の姿を彫りなさい。」と申されたので尋ねてきたのだそうです。 村人はすぐにあの霊木だと気がつき観音堂に案内しました。 一了老人は涙を流して感激し、さっそく沐浴【もくよく】して身を清め、信心を凝らして、ひと彫りするごとに五体投地【ごたいとうち】の拝礼を三度する、一刀三礼【いっとうさんれい】という最高の彫り方で四尺ほどもある達磨大師の坐禅像を彫り上げました。

さて、その達磨像を観音様と並べて安置しようとしましたが大きすぎて納まりません。 困っていると、ある日碓氷川に朽ちて大きな穴の開いた大木が流れつきました。村人達はまた観音堂に運ぶと、一了老人は達磨大師の厨子に丁度良いのではないかと思い、入れてみると不思議にもぴったりと納まりました。 村人達は一了老人が心を込めて素晴らしい達磨像を彫り上げたので、「有難い達磨大師が鼻高に現れたぞ!」と噂をするようになりました。 この達磨座像の噂は、たちまち近郊近在に知れわたり「活然【かつねん】大師(達磨大師のこと)出現の霊地」として、誰言うとなく村の人たちが「少林山」と呼ぶようになったそうです。貞享【じょうきょう】元年(1684)の「前橋風土記【ふどき】」の領内の名山案内のところに「少林山─碓氷郡鼻高村ニ在リ」と記されているように、この頃には少林山の名が一般に知られていたようです。

さて、当時前橋藩の第五代藩主で名君として誉れ高い、酒井雅楽頭忠拳【さかいうたのかみただたか】公は、たまたま領地巡見の際にこの霊勝を知り、少林山の達磨像に参拝し、ついにここに寺を建てることを発願しました。 それには訳があるのです。 この周辺の領地は厩橋【うまやばし】城(前橋城)から見ると、ちょうど裏鬼門の方位に位置し、つねづね何か悪いことがあると困るなと心配していたのです。 それでここに方位・方角の災いを除ける為のお寺を建てて、領地の安全を計ろうと思い立ったのでした。 しかし、当時幕府の方針で新しくお寺を建てることへの規制はとても厳しかったのです。当時の宗教法人法に当たる寺院法度【じいんはっと】には新たに寺院を建てることを禁じたばかりではなく、庵室【あんしつ】の類【たぐい】を寺院に取り立てることも禁じられていました。ですから、庵室の類に当たるこの少林山の観音堂を寺院に昇格させることは、当然この法度に触れてしまうのです。

そこで酒井公は当時、特に厳しく宗教政策を進めていた、天下の副将軍・水戸黄門【みとこうもん】こと徳川光圀【みつくに】公に進言して、水戸公が心から帰依し、水戸の天徳寺【てんとくじ】(後の祇園寺【ぎおんじ】)で曹洞宗寿昌【じゅしょう】派を興された、中国からの渡来僧・心越興儔【しんえつこうちゅう】禅師を少林山に迎え、禅の道場を開くことにしました。ところが、この話が進んでいる元禄7年心越禅師は病に倒れ、翌8年9月30日遷化【せんげ】されてしまいました。酒井公はやむなく元禄10年に心越禅師の法嗣【はっす】で高弟の誉れ高い天湫【てんしゅう】和尚を向かえて、「少林山達磨精舎【しょうじゃ】」と名付けて、正式な寺院ではなく、禅の道場として開創したのです。

このような状況で草創の頃は「少林山達磨寺」という名称は使えず「少林山達磨精舎」「少林山達磨禅窟【ぜんくつ】」「少林山達磨禅刹【ぜんさつ】」などと称していました。天湫和尚は師の心越禅師を追請開山【ついしょうかいさん】に奉じて、自らは少林山第二世になって伽藍【がらん】の整備と心越禅師の伝えられた中国曹洞正宗【そうとうしょうしゅう】の禅を広めるために尽力されました。

さて、現在の放生池【ほうじょういけ】の場所に本堂が建てられ、そこには十一面観世音菩薩と前橋領の安泰と鎮護国家・武運長久を祈るため、心越禅師が中国から奉持された尊星板梓【そんせいばんし】と北辰鎮宅霊符尊像を祀りました。そして、その隣に達磨堂を建てて、一了【いちりょう】老人の彫った達磨大師像を納めました。しかし残念なことに一了老人もまた諸堂の完成を見ずして元禄6年8月16日に示寂されました。

また、中国曹洞宗の流れの道場として建てられたので、大石段を上り詰めたところには、中国式の天王殿【てんのうでん】もあり弥勒菩薩【みろくぼさつ】の化身【けしん】としての布袋尊【ほていそん】やその裏に韋駄天【いだてん】、そして四方には四天王【してんのう】を祀りました。その他に、正徳2年(1712)4月8日に鐘楼【しょうろう】が完成しました。さらに正徳4年には黄檗鉄眼【おうばくてつげん】版一切経を発注し、5,000人もの多くの人々の喜捨を得て享保元年(1716)に無尽法蔵【むじんほうぞう】に納められたとその奥書に書かれているので、現在の観音堂(旧経蔵)はその頃までには建立されていたと思われます。

その後、享保16年(1731)漸く長年の念願であった寺院に昇格することができました。それは、高崎市箕郷町富岡にある長純寺の末寺である鳳台院【ほうたいいん】が白川の氾濫によって伽藍は倒壊し、境内地も押し流されてなくなったのを知り、水戸の祇園寺の進言で、その名義を譲り受けることができて少林山鳳台院達磨寺となったのです。江戸時代の古地図(深堀家文書)には鳳台院の名前で表わされているので、少林山達磨寺となったのはいつのことなのかはっきり判りません。

観音堂の歴史

観音堂は少林山達磨寺では最古の建造物です。開創のころ、ここは黄檗鉄眼版の一切蔵経を納めた「無尽法蔵【むじんほうぞう】」という名称の経蔵がありました。今から二百年ほど前、寛政四年(1792)に経蔵は大改修が行われ、開山・心越【しんえつ】禅師が遥か中国より奉持された尊星板梓【そんせいばんし】と北辰鎮宅霊符尊【ほくしんちんたくれいふそん】をおまつりする、霊符堂として面目を一新したのです。

現在のお堂の姿となったのはその時からと考えられます。現存しているその大改修の際の棟札には経蔵創建当時の古材が使用されたと記録されているので、現在の観音堂は三百年前からの建物ともいうこともできます。

その棟札によりますと、当山第八代の南嶺【なんれい】和尚は黄檗僧照山【しょうざん】和尚より霊符尊神像(現在本堂に祀られている本尊)の寄贈を受けて、霊符堂への大改修を発心されたのだそうです。

ところがその頃、天明【てんめい】の飢饉【ききん】や天災などが頻繁におこって、建立は長い間延期されることになってしまいました。

その後、ようやく着工となったのは、後の少林山達磨寺九世となる 東嶽【とうがく】和尚(福だるまの創始者)の助力を得られるようになってからです。そしてついに寛政四年十月十五日棟上げの日をむかえられたのです。また建立の際しては多くの檀信徒の方々が霊符堂大改修の為に尽力されたそうです。なにしろ、たび重なる天災飢饉によって民衆は苦しい生活を強いられていましたので、わずか一銭半銭あるいは紙一枚という喜捨もあったとされ、また人々は喜んで石や土を運び、力を尽くしたといわれます。そのように江戸末期の檀信徒一人ひとりの信心が結集されて寛政四年の霊符堂大改修が成ったのです。

明治十四年六月十六日、少林山達磨寺は火災に遭い、本堂を始め達磨堂や庫裡などの諸堂が焼け落ちてしまいました。

しかし、有難くも不思議なことに、この霊符堂だけは離れていたので、その難から逃れることができました。お釈迦様の教えの全てを伝える一切蔵経の功徳と霊神-北辰鎮宅霊符尊の法力、そして檀信徒の信心この三つによって霊符堂は火災の難から逃れぬことができたのでしょう。

当少林山達磨寺には火災に遭う前の旧諸堂配置図が残っております。碓氷川と大石段はほとんど変わりませんが、昔の本堂は現在の放生池のあたりにあり、その向かって左側に達磨堂、右側に庫裡があったことがわかります。そして小石段を登りつめたところにあるお堂が現在の観音堂です。

少林山の近隣では古墳が多数発見されていますし、寺沢という地名も残っていますので、古来よりこの地は聖地であったのでしょう。

黄檗宗について

黄檗宗【おうばくしゅう】は達磨大師【だるまだいし】の教えを受け継ぐ禅宗(臨済宗【りんざいしゅう】・曹洞宗【そうとうしゅう】・黄檗宗)のひとつで、中国福建省【ふっけんしょう】から渡来した隠元禅師【いんげんぜんじ】隠元禅師は1592年中国福建省福清県東林村【ふっけんしょうふくせいけんとうりんむら】で生まれ、29才の時福清県にある黄檗山万福寺(古黄檗)の鑑源和尚【かんげんおしょう】に就いて出家し、後に密雲円悟【みつうんえんご】に参禅、次いで費隠通容【ひいんつうよう】に就いて42歳で嗣法【しほう】、46歳で黄檗山万福寺の住職となり、その教えの素晴らしさは遠く日本にまで聞こえてきたといわれます。長崎の興福寺住職・逸然【いつねん】から度重なる招請があり、承応3年(1654)62才の時、弟子20人ほどを伴って来朝しました。後に 摂津富田【せっつとんだ】の普門寺【】 に迎えられ、臨済宗 妙心寺【みょうしんじ】に迎えられる話もあったが、徳川4代将軍・家綱公【いえつなこう】と、皇室では御水尾法王【おみのおほうおう】の帰依を得て京都宇治に9万坪の敷地を頂き、寛文元年(1661年)中国様式の黄檗山万福寺を創建し、黄檗宗が成立しました。によって開かれました。

本山は京都府宇治にある黄檗山万福寺【おうばくざんまんぷくじ】黄檗山万福寺は京都府宇治市五ヶ庄にあり、中国の明朝様式【みんちょうようしき】を伝える黄檗宗の大本山で、隠元禅師が住職をしていた中国福建省にある黄檗山万福寺(古黄檗)と同じ名前で1661年に創建されました。この土地は御水尾法王【おみのおほうおう】の生母である中和門院【ちゅうわもんいん】の宇治別邸で1661年から17年かけて大伽藍【だいがらん】が完成したのです。隠元禅師から第13代までと、途中で14代、17代が日本人僧侶でしたが、第21代大成禅師【だいじょうぜんじ】まで中国僧が住職を勤めました。で全国に450ヶ寺の末寺があります。

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